熱帯のクリスマス
チャーリー岸田

その3 - 戦場に架ける橋(後編)

 しばらくの間鉄橋の上をウロウロしていたのだが、帰りの列車が出発するまでにまだ3時間ある。このままここでボンヤリしているよりも、ツアーに参加すれば行くはずであった『連合軍共同墓地』と『戦争博物館』も観ておこう。

 そう思った岸田は近くに居たバイクタクシーに声を掛けた。このあたりでは普通のタクシーやトゥクトゥクなどは見かけない。観光客の移動の手段はバスかバイクタクシーに限られるようだ。

岸田 「連合軍共同墓地まで頼む。」
運転手 「オラ、そんなとこ知らねえだ。」

 また運転手の『そんなとこ知らねえ』攻撃が始まった。地図ではここから数kmの近場だと言うのに。

岸田 「道なら俺が教えてやる。とりあえずこの道を〜」
運転手 「お客さん、ちょっとこっちへ来てくれろ。」

 運転手に付いて行くと、そこはバイクタクシーの溜まり場であった。

運転手 「誰か『連合軍共同墓地』って知ってるだか?」
  「オラが知ってるだ。」

 別の運転手の1人が手を挙げた。

運転手 「お客さん、良かったなあ。あの運転手が連れて行ってくれるだよ。」

 こうなったら値段は相手の言い値である。こちらには他の選択肢がないのだ。それでもこのあたりの運転手は高い金額を吹っ掛けて来るようなことはしなかった。バンコク市内の運転手よりも素朴な人間が多いようだ。

 連合軍墓地は戦後60年が経過した今でも地元のタイ人たちの手で綺麗に整備されていた。

連合軍墓地

 墓の一つ一つを見てみると、その多くが20歳代の若者であった。墓碑には亡くなった日付と簡単な追悼の言葉が記されていたのだが、まるで鹿児島の知覧にある『特攻隊記念館』で感じたものと同じ感慨を抱かせる場所であった。戦争で犠牲になる者の多くがまだ若い者たちなのだ。

連合軍墓地

 犠牲者の死因の多くは熱病によるものだが、友軍である連合軍の爆撃によって命を落とした捕虜も多かったようだ。泰緬鉄道は日本軍の重要な補給路であったため、連合軍による爆撃も熾烈を極めたようである。

 泰緬鉄道建設で犠牲になった連合軍捕虜は約16,000名。しかし、東南アジア各地から徴用されたアジア人労働者の犠牲はその何倍にも上っている。連合軍捕虜の墓がこうして手厚く管理されているのに対し、アジア人労働者の骨はジャングルの中に放置されたまま土に還っていることも忘れてはならない。

 さて次は戦争博物館だ。
 また岸田はバイクタクシーを探した。

運転手 「知らない。」
運転手 「俺も知らない。」
運転手 「誰も行ったことねえだ。」

 何だこいつらは? 一応ここは観光地だろう? 地元の名所くらい覚えておけよ。
 岸田は無理矢理その中の一台に乗り込んだ。

岸田 「まずはこの道をまっすぐだ!」

 ところがオートバイは全く逆の方向に走り始めた。

岸田 「そっちじゃない! 反対方向だ!」
運転手 「オラ、道知らねえだ。だから知っている人に聞きに行くだよ。」

 運転手は道端で絵葉書を売っているオヤジに声を掛けた。どうやらこの絵葉書売りが、地元では『物知り』とされているようだ。
 絵葉書のオヤジは運転手に道を教えた後、岸田に声を掛けた。

絵葉書 「この運転手は道を聞くために遠回りしたんだ。だから料金は倍払ってやってくれ。」
岸田 「馬鹿言ってるんじゃねえ。俺は遠回りしろなんて言ってないぞ。」
絵葉書 「でも遠回りしなければ博物館には行けなかったんだ。」
岸田 「それはこの運転手の問題だろう。」

 しかし、ここで言い合いしていては時間が勿体無い。あと1時間程度でバンコク行きの列車が出てしまうのだ。岸田はまた金で片をつけることにした。倍と言っても50円程度だ。本当はこう言うやり方は良くないのだろうが、それも知ったことか。

 『戦争博物館』は、予想以上にプアなものであった。これでは運転手が知らなくても無理はない。岸田は長崎に住んでいたことがあるので、この手の「トホホ」系の観光地には慣れているのだが、この戦争博物館は、あらゆるトホホ系観光地を超越した脱力物であった。陳列してあるものは当時の日本軍や捕虜が使用していた生活用品と少しの写真だけである。しかし、品数が少ないとは言え、戦争当時の物を保存しておくことには価値があるのだろう。

 そろそろ列車の出る時間だ。またあのガタガタ列車でバンコクに戻るのだ。あーあ。

 この日1日で使ったお金は全部で約1,500円。バンコクのホテルから駅に行くまでのタクシー代や、昼飯のときに飲んだビール、バイクタクシーに気前良く払った相場を超える金額など全ての総額である。あの旅行会社のバスツアー5,400円ってのは何だったのだろう?

おわり


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